<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>

<rdf:RDF
 xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
 xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
 xmlns:taxo="http://purl.org/rss/1.0/modules/taxonomy/"
 xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
 xmlns:syn="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
 xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
>

<channel rdf:about="http://sron.sron.blog.zmapple.com/">
<title>S論</title>
<link>http://sron.sron.blog.zmapple.com/</link>
<description>Ｓについて。</description>
<dc:language>ja</dc:language>
<dc:creator>sron</dc:creator>
<items>
 <rdf:Seq>
  <rdf:li rdf:resource="http://sron.sron.blog.zmapple.com/59415.html" />
  <rdf:li rdf:resource="http://sron.sron.blog.zmapple.com/59414.html" />
 </rdf:Seq>
</items>
</channel>

<item rdf:about="http://sron.sron.blog.zmapple.com/59415.html">
<title>Ｓ論　序―補足</title>
<link>http://sron.sron.blog.zmapple.com/59415.html</link>
<description>　序でも少し述べましたが、この文章自体は私自身が信仰そしてＳについて考える場であり、同時に、皆さんにも私と一緒に考えていただけたらと思い設けた場でもあります。ゆえに、論旨に一貫性はありませんし、予定では第３回と第６回以降に述べることにしていますが私自身、現在リアルタイムで心境が大きく変化しつつあり、ひょっとすると弘教（ぐきょう）のための文章にならないとも限りません（笑）。
　それでもなお、科学的な捉え方を失うつもりはありませんし、もし非科学的な方向へと進みつつあればご指摘いただけると嬉しい限りです。
　科学的な観点からそれでもこの信仰に価値を見出せるなら（私としてはそれを見出すために書き始めたのですが）、大いにＳという&lt;strong>組織にというよりはむしろ&lt;/strong>Ｓ員&lt;strong>個人に対して&lt;/strong>理解が得られるのではないかと思っています。
&lt;div style="margin:20px 0 10px 0;">
&lt;!-- ---Sponsor Link --- -->
&lt;script type="text/javascript">&lt;!-- 
google_ad_client = "pub-2698104039252569"; 
google_ad_width = 234; 
google_ad_height = 60; 
google_ad_format = "234x60_as"; 
google_ad_type = "text"; 
google_ad_channel = ""; 
//-->&lt;/script> 
&lt;script type="text/javascript" src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">&lt;/script>
&lt;/div>
</description>
<dc:creator>sron</dc:creator>
<dc:date>2007-03-10T00:18:11+09:00</dc:date>
<dc:subject>Ｓ論</dc:subject>
</item>

<item rdf:about="http://sron.sron.blog.zmapple.com/59414.html">
<title>Ｓ論　序</title>
<link>http://sron.sron.blog.zmapple.com/59414.html</link>
<description>　これまで長い間考えてきた「信仰とは」。そして宗教の意味。巨大教団Ｓの内部の人間としての葛藤。何度か書きかけては、やめていましたが、ある程度考えがまとまってきたのでそろそろ書き始めようかと思い、ここに掲載していく運びとなりました。私がＳの人間であることは別に意図的に隠していたわけではなく、いわずとも日常生活にはなんら支障をきたさなかっただけというのは・・・言い訳です。Ｓにいながらも疑いを捨てられずにいたというのが大きかったと思います。
　生まれて物心のついたときからＳにいたこと、中学〜高校時代のＳに対する懐疑・「信仰」に対する不信、そして浪人してゆっくり考えたこと。これらを織り交ぜつつ、「信仰」の本質、現状、これからどうしたいのかなど、書きながら考えていきたいと思うわけです。
　わざわざこんなところに書くに至ったのは、編集しやすいというものありますが（笑）、そもそも私が大半のＳ員と見解を異にしている（私の傲慢です）からであり、さらに私の見解が大半のＳ員、あるいは私の両親らには受け入れがたいものであろうと思ったからであります。
　しかしながら、ここの読者の皆さんであれば、共感は得られずとも、何らかの理解は得られるという確信があったと同時に、私の見解が精神的なものを離れ論理的（科学的）であるという自信があったからというのも理由の一つであります。私の現段階の見解はそれゆえ、大いに（彼らの）信仰を揺るがし得るものであり、現に私自身が「信仰」をそれ自体として行えなくなっています。確かに幼い頃からの植え付けや人間の無力さによる、自然や宗教に対する畏怖は大きく残っていますが、盲目的に「信じる」ことは不可能な状態にあります。本編ではこのことについて存分に述べていきたいと思います。
　また、教団としてのＳの実態、個人レヴェルでのＳ、彼らの目的などを、内部の人間としてできるだけ客観的に捉えていきたいとも思っています。大まかな結論から言いますと、大変大勢の人間を抱える集団であり、かつ、構成員は所詮は人間なのですから諸問題を抱えているという現状を否定することは明らかに不可能です。ですが、Ｓを一歩引いてしかしながら身近で見てきた人間として言わせてもらうと、彼らの実態、特に個人個人の人格・人間性とややかけ離れたイメージが蔓延しているように思えます。やや誇張して例えるなら、悩みを抱えて神や仏に救いを祈り続ける人間に対して頭ごなしに「狂っている」というレッテルを貼り付けてしまっているような感じです。その辺に関してもここで述べていけたら、と思っています。
　この文章の最終的な目的は、布教でもなければＳや「信仰」に対する批判でもありません。筆者である私の置かれている状況や、「信仰」の本質的な部分を私自身がきっちりと理解することです。これまで考えてきたことが脳内で固定化されるとやや漠然としたカタマリとなって定着し、そこに至った細かい論理的プロセスを忘却してしまうので、その前に文章化して、自身の理解をより緻密なものにしようというのが本来の狙いです。ですが、私の考察を通して敬愛する読者の皆さんに少しでも私の人生の一部を理解してもらえたら幸いですし、非常に報われる思いでもあります。
&lt;div style="margin:20px 0 10px 0;">
&lt;!-- ---Sponsor Link --- -->
&lt;script type="text/javascript">&lt;!-- 
google_ad_client = "pub-2698104039252569"; 
google_ad_width = 234; 
google_ad_height = 60; 
google_ad_format = "234x60_as"; 
google_ad_type = "text"; 
google_ad_channel = ""; 
//-->&lt;/script> 
&lt;script type="text/javascript" src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">&lt;/script>
&lt;/div>
</description>
<dc:creator>sron</dc:creator>
<dc:date>2007-03-10T00:05:59+09:00</dc:date>
<dc:subject>Ｓ論</dc:subject>
</item>

</rdf:RDF>